「大人の発達障害」
気づかれないまま大人になって、仕事を含む社会生活が送りにくくて初めてそこで気づかれる発達障害の人たち。
娘を含むそんな人たち。
でも、大人になるまで、ほんとに気付くことできなかったのかな?
どこかで気づくことができてたんじゃないかな?
娘の小さなころのこと
娘がASDと診断された1年前から、娘の小さなころからのことをよく思い返す。
☆ここが落ち着かない。
娘が4歳のころからかな?
胸のあたりを押さえたり、とんとんと叩く動作をしながらこの言葉を言うようになった。
初めは何を言っているのかわからなかった。
小さな子供が怖がるような、例えば、暗い部屋に入るとか、オバケの話しを聞いてとか、そんな明らかにわかりやすい場面ではなく、突然的であったり、私には思いがけずの時や状況で言うことが多かった。
その原因がわかる時もあれば、わかってあげられない時もあった。
『落ち着かない』という言葉を4歳の子が使うことにも驚いたし。
理由がわからない時や私に時間や余裕がないときは「もう!何でもないよ!大丈夫、大丈夫!」と言葉をかけて終わらせていた。
それだけでは、解決できていない時はとても困った顔をしていたけど、実は私も困っていた。
これは、娘の心の中の不安が大きくなった時に言ってきていたんだろうと、今なら思う。
小学校にあがったころにはほとんど言わなくなって、私もそのことをすっかり忘れていたんだけど、当時を振り返るとちゃんとその気持ちを受け止めてあげればよかったな、と思う。
私にはわからない不安の理由だったかもしれないし、その時も解決できなかったかもしれないけど、娘の気持ちをほおりだしたり娘に任せてしまわずに、受け止めてあげていればよかったと思う。
☆学校や友人との娘
小学生のころから、狭い友人関係で、ひとりの子に執着しがちな娘はいわゆる「みんなで遊ぶ」ということができず、一人のことが多かった。
そんな娘の友だち関係は、私の悩みでもあった。
中学3年の修学旅行。
「行きたくない」と言い出すかとヒヤヒヤしていたけど、それなりに楽しみな様子で出発してくれた。
駅まで見送って大きなボストンバッグを担いで「いってきま~~~す!」と改札に入っていった娘の姿に、なんだか涙が出たのを覚えている。
これで楽しい経験ができたら、友だちの幅が少し広がって遊びに行くことも増えるかもしれない、と期待もした。
でも、修学旅行から帰った娘は、リビングに入ってくるなり、ボストンバッグを床に投げつけて
「行かなかったらよかった!みんな私を無視して、バスでもホテルでもひとりぼっち。班行動もだれも混ぜてくれないから、人数が空いたところに着いていっただけ。もう地獄だった!」と泣き始めた。
もう、何が何だかわからなかったけど、娘の泣く姿を見ながら
(なんでみんなと同じことができないんだろう。ふつうのことをしてほしいだけなのに)
と悲しくなった。
そして、その上手くできない娘の原因は、私の子育てだったり、娘への向き合い方が原因だと思っていた。
その翌週から、懇談が始まる予定だったので担任に相談しようと思った。
その懇談で、どう話を切り出そうかと迷っていると担任の先生が
「修学旅行でも、〇〇ちゃん(娘の名前)は盛り上げ役で、バスでも後部座席の真ん中で移動中もずっと歌ったり踊ったりしていました!意外な一面でした!」と。
え?どういうこと?
訳が分からなくて横で並んで座っている娘の顔を見ると、気まずそうにうつむいている。
何が起きてるかわからなかったけど、そこは担任の話しに合わせて曖昧に返事をして帰った。
家に着いて娘に聞いてみると、担任が話したことが本当で、私に娘がいったことは嘘。
「あんちゃんを心配させたかった。」と。
ショックで、なんだか、真っ暗闇に身体が吸い込まれる感じがした。
そして、嘘をつかれたことはギリギリ私の気持ちから追いやって、楽しく過ごせたならよかったと思うようにしたけど、でも、娘の生活はやっぱり変わらない。
そして、楽しそうにはならない。
学校が休みの日は一人で家で過ごす。
また訳がわからなくて、またその後も同じようなことは繰り返した。
私は、娘の話しが信用できなくなっていた。
そのまま、気持ちの整理できない私は、娘の友人関係には気持ちを向けないようにしてやり過ごした。
でも、あれから7年?
ASDと診断された前後で、その当時のことを娘と話した時があった。
もちろん、修学旅行の私への嘘の話しは娘も覚えていて、そのことについて
「『心配させたかった』と言うのが簡単だったから言葉として使ったけど、でも、嘘でもなかった。友だちの前だと、自然ができない。大声で話したり、笑ったり、いつもテンションを上げていないと向き合えない。だから、修学旅行の間、気持ちが落ち着く暇がなくて本当にしんどかった。」
と、初めて話した。
その話を聞けたことから、テンションを上げて素の自分を見せないことが、娘の無意識のガードなのだとわかった。
そして、そこで体力気力を使い果たしてしまうから、週末は遊びに行かず一日、本を読んだり自宅で過ごすことで充電していたのかな?とも思うようになった。
☆まぁいいや、ができない。人の気持ちが配慮できない
高校生の時、授業の一環で、希望者による縦割りの研究サークルのようなものがあった。
中学生のころから興味を持っていた娘はもちろん参加した。
夏休みにグループでの研究課題があり、先輩から割り振られた宿題を持ち帰った。
PCでプログラミングするという内容だったみたいだけど、それを翌週までに200パターン提出しないといけないと言われたと、半泣きで怒って画面に向かっている。
普通に考えて、初心者の高校1年生に1週間で200パターンのプログラミングなんてありえない。
もう一度、先輩に確認するように勧めても
「言われたからやるしかないの!」
と、全く聞く耳を持たない。
しばらくは付き合っていたけど、何も聞き入れず怒っている娘に付き合い切れなくなって、ほっておいた。
そして、4日目。
無理をしすぎて、持病の腎臓病が再燃してしまい、入院になった。
もちろん課題ができるはずもなく、先輩に連絡しておくように話し、身体が大切だから責められても気にすることないよ、と話した。
やはり、1週間で200パターンなんて必要なかったらしく、また『お大事に』と返事もくれたそうで、そしてまた、それを聞いて娘は特に私に心配をかけたとかは感じずに知らん顔して病院のベッドに横になっていた。
やりきれないというか、入院までしてもう、本当に気持ちのやり場がなかった。
母の気持ちとしては
こうやって振り返って、文字にするとやっぱりこだわりの強さであったり、不安定な気持ち、対人関係のいびつさ、配慮ができないなど、特徴は見えていたのかもしれない。
でも、その時々は、年齢による反抗期や難しさ、親離れ子離れなどと考えたりしていた。
これら、またほかにもあったたくさんの小さなことに気づけていたり、違和感を見つめ続けていたらもう少し早い段階でいわゆる手立てを講じることができたのかもしれない。
だけど、誰しも思うのと同じように、私も母親として娘が『普通に』『当たり前の』その世代を過ごしているのだと思っていたし、思いたかった。
それが、だんだんと難しくなったから、今に至るわけだけど。
・・・あ、でも、これを書きながら思い返してみると、友人関係で男子には割と自然でいられているみたい。
ひとりに執着せずに、久しぶりに遊ぶ時でも、密だろうと何人だろうと1対1だろうと、構わず遊べる関係を続けている。
私にもう少し余裕があったら、もう少し根気強さがあったら、もう少し娘に寄り添えていたら、もしかしたらもう少し早い時期に気づけていたのかもしれないけど、1年前に気づけたことをよしとしよう。
スタートできたんだから。
そして、職場の心理士の先生が言ってくれたように、これまでのしんどかったことは、私の子育てのせいや娘自身のせいでも、家庭のせいでも環境のせいでもなんでもないと自信を持とう。
これから、どんなにでもうまくいける、やっていける!
ここまでお読みいただき、ありがとうざいました。
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