娘が自閉スペクトラム症(ASD)だと分かったとき、心理士の先生に
「ASDはあなたの子育てが原因じゃない。何も悪くないよ」と言われた。
けれど、こうも言われた。
「愛された発達障害の子供は、周囲からも受け入れられる」と。
それはつまり、言動を親に受け入れられて認められて育った子は、親以外のひとからも愛される個性になる、と言うことだと思う。
娘がこれまで対人関係に苦労してきたのは、ASDの特性が原因ばかりではなくて、私の子育ての影響があるんじゃないかな。
褒められて、うれしかった
先日、娘が
「この間、片付けがあまりできてなかったのに『ちょっとでもできてるね!』言ってくれて嬉しかった。ありがとう」
と言った。
22歳の大学生が、母親のそんな小さな一言に喜ぶなんて。
やっぱり娘は、いつも小さなことも誉めてもらいたかったんだなぁ~と。
そんな当たり前に今さら気づく。
私、娘にかける言葉をさぼっていたな~と思った。
春生まれの娘と、冬生まれの弟たち
それを言われて子育てを振り返った。
3歳8か月でおねえちゃんになった娘に、下の弟ふたりほどは誉める言葉や未完成でも「すごい!」と言ってあげることが少なかったなぁ~と。
春生まれの娘は、小さなころからたいていのことはお友だちよりも早くできて、上手だったりした。
私はそのことにいつも感心していたし、すごいなぁ~と思っていたけど、いつしか娘がちゃんとできることや、完成度が高いことが娘の当たり前の結果だと思ってしまっていたのかもしれない。
例えば、娘が描いたお絵描きに
「上手にかけてるけど、もっといろんな動物も描いたらよかったね」とか、
「これだけしか描けてないの?」とかね。
いつも「もっと」「~のに」と言っていた気がする。
この言葉では、「自分は足りてない」と思うよね。
逆に下のふたりの弟。
長男は、冬生まれということもあり、小さなときからぽ~っとした子で、いつものんびりスローにマイペース。
そして、次男は、末っ子の特性を利用して、私の怒りをうまくかいくぐる術を身につけていた。
そんな弟ふたりだったので、私も「できていなくて当たり前」となんでも適当に考えられたし、娘を育てる中で私が初体験したことをふたりがなぞっていくので、私に心の余裕もあったのだろう。
そして、弟ふたりは小学1年生のころにはスポーツを始め、私の知らない世界で毎週毎週泣きながら泥だらけになっていたので、なんだかそれだけで十分!すごい!すごい!!と思えて、いつもふたりにそう言っていた。
特にスポーツなどはせず、家で過ごしていた娘と比べていたのかもしれない。
だから、「もっと!もっと!」と、娘の気持ちは見ずに目の前の見えるものだけを見ていたのかなぁ~
今、娘ができていることを「がんばったね」「すごいよ!」と言わずに、さらにがんばれ!と。
そして、ASDの特性もあったから、私の言葉をドーーーーーーーーン!とまともに受け止めてしまっていただろうし。
頑張っても、がんばっても、到達できないんだもん。
娘、しんどかっただろうなぁ~。
娘が中学、高校の頃には、自分が褒められることや認められることを極端に嫌がり
「どうせ、こんなこと誰にでもできる」
「まだまだこんなんじゃだめ」
と、返してきた。
その時は「素直じゃないね」と腹を立てていたけど、三つ子の魂って言うもんね。
逆に、褒められて育った弟ふたりは、動じない男たちに仕上がった。
ふたりとも、私に優しいけど、私の小言なんて何言われてもどこ吹く風。
自分がある。
小さなころの私の言葉かけの結果かなぁ~、と振り返る。
私の子育てが原因で娘がASDになったわけじゃないけど、その特性の部分を色濃くしたり、薄めたりは子育ての影響があるんだろう、と思う。
自閉スペクトラム症(ASD)と聴覚情報処理障害(APD)が判明してからのこの1年は、いろいろあったし衝突もしてきたけど、一緒に過ごす時間が増え、会話はすごく増えた。
だから、私からの「ありがとう」「いつも助かるよ」などの言葉も気を付けて増やしている。
そしたら、娘からの言葉も増えたと感じることができるようになった。
自閉スペクトラム症(ASD)の娘の人柄や対人関係を難しくしたのは、もしかしたら私の子育てが原因かもしれない。
でも、いつからでも子育てはやり直しができると、先生は言ってくれた。
私の娘の子育ては、まだまだこれから!
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