子どもたちの間で日々繰り返されている「ごめんね」「いいよ」
それにまつわる持論です
どう思いますか?
「ごめんね」「いいよ」システム
子ども同士のやり取りの中で、当然起こるもめ事。
それは、立派な成長のひとつ(と、私は思っている)
ほっておけばいいのに、今の時代のせい?
すぐさま、おとな介入っ チョットマテイッ!
「何があった?」「どっちが先にした?」「なんでしたの?」質問の応酬・・。
結果、「だめだよね~~!」と、決定つける。
その大人ジャッジの元、悪かったであろう子どもに言わせます。
大人「ほら、ごめんねは?」
A助「ごめんねぇ~~~」
大人「ごめんね、って言ってくれてるからなんて言う?」
すかさず相手の子が言います。
B太「いいよぉ~~」
うっそぉぉぉぉん!!え~~~~~~!ほんとに、いいのぉぉぉぉ?
だって、あなたまだ泣いてるし、嫌な思いしたじゃない!
だって、あなたまだ目が吊り上がって、怒った顔してるし、「いいよぉ~」の声が聞きとれないほど小さいよぉ~~?
なにより、何より!!だって、まだちゃんとお話しできてないじゃない!
反射的に「いいよ」が出てくるって、それってもうトレーニングのたまもの💦
そんなのだめ、だめ、だめ~~~!!
子育てで
私の3人の子どもたちの子育てでは、きょうだいげんか、相手が痛い思いをしたとき、危険なことをしたときには、もちろん、
「こらぁぁぁぁぁぁ~~~~~!!!!」と、声を限りに叱りつけていましたし、危害を加えたときは「ごめんなさいはぁぁぁぁぁ~~~?!」と、怒鳴りつけていました。
でも、それに対してされた側のきょうだいに「いいよ」は求めなかった。
だって、「(もう)いいよ」かどうかは、本人が決めること。私には、「いいよ」をもう言えるくらい気持ちがおさまっているかはわからない。
そんな風に3人を育ててきたのですが、やはり子どもの最初の社交界「幼稚園」に通うようになり、家の中でもだんだん難しくなりました。
チョーナン「ごめんね~~~~~!」
ジナン「・・・・」
チョーナン「ごめんね~~~~~~~~~~!」
ジナン「・・・・・・・」
チョーナン「もうっ!ごめんね~~~!ってばぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
もはや「いいよ」の強要オカシイヤン!
挙句に
「僕がごめんね、って言ってるのに『いいよ』って言ってくれない」
はぁ~?(# ゚Д゚)あたりまえやん、だって、(相手は)まだ怒ってる。
だから、ごめんねを言われたきょうだいが「ゆるさな~~~い!」といえば、「そりゃ、怒らせたんだから当たり前」と言ったし、「もういいよ」と言えば、ふたりを誉めました。
なんだか嫌で、家庭内のきょうだいげんかでは、「自分がしたことに対してあやまる」ことは、「相手に許させるためではない」と教え続けました。
そんな形で、きょうだいのけんか(もめ事)の支えをしました。
持論
私は、どんなに小さな子でも、やり取りの中で「許せない!」という気持ちは生まれるはずで、だから揉めるわけで、その子が納得できたり「いいよ」と思った時が「いいよ!」なのだと思っている。
許せない気持ちは、自分の納得と時間であったり相手の心からの謝罪であったり、言葉でなくても気遣いやなんかでほどけていくもの。
だから、大人のジャッジ、大人の時間軸で「いいよ」を早めてあげないでほしい。
(ほんとは『ごめんね』にもそう思っていて、理由があるなら『ごめんね』も同じように、本人の『ごめんね』のタイミングなのだと思っている。)
いつまでも許さないとか、別のできごとまで混ぜて怒りを膨らませるときには、大人の声掛けが必要かもしれませんが、流血など相手に危害を加えていない場合のもめ事、ケンカについて解決までの時間を短縮してはいけないのではないかと考えます。
怒った子が相手を許すまで、そして、怒らせた子が相手に許してもらえるまで。
お話しするのか、さりげなく近寄るのか、何気なくぶつかってみてきっかけを作るのか・・・。
ケンカでぽっかりあいてしまった何かを、取り戻すための気持ちと頭を使うこと。
それが、子どもたちにはとても重要で、その後のつながりを生む大切な時間ではないかと思っています。
「いいよ」と言ってもらえないことをした、ということもそうして学ぶのではないかな?
子どもは幼ければ幼いほど、ケンカをしてもいつの間にかまた遊び始めているものです。
子ども同士に任せておけばいい。
気まずさを感じることも大切な時間。
心を育む貴重な5歳までの年齢に、機械的な言葉だけの「ごめんね」と反射的な「いいよ」を植え付けることは止めたいな、と思います。
この持論の元、私の3人の子どもの子育ての中でも実践してきたのですが、みなさんはどう思われますか?
ここまでお読みいただき、ありがとうざいました。
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よろしくお願いします。
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